『時の返し矢』公開
時の返し矢
とうに枯れた木々の森は、それ自身が神々の亡骸であるかのように白い。踏み均された道を示す無数の鳥居の列も、かろうじて崩落を免れているとはいえ、いっさいの生気と色を失っているという点では同様だった。それらは静止した時間の記念碑にすぎない。ここにおいては、風すらも止まっているように感じられた。
ゆえに、参道に降りる数多の鳥居の影を一つ抜けるごとに、私たちはそうした時間に対して向き合わなければならなかった。彼らは私たちと共には流れてくれないのだから。私たちにできるのは、ただ、この森を成す数々の記憶を、想像させられるように想像することだけだ。つまり、一つの抵抗が現れるたびに、一つの解消を与える。その反復に併せて、白い森は明滅した。
「これは思ったより長くなりそうね」
そう私が言うと、蓮子は少し呆れて、「軽い遠足みたいなものよ」と返した。
参道は丘の斜面に作られているため、それは常に緩やかな坂道になっていた。山登りとまではいかないが、普通の道よりかはいくらか骨が折れる。そのような特徴を鑑みると、蓮子の比喩はそう的外れでもなかった。
「それに、地図は教えておいたでしょ。今はたぶんこの辺りかな」
そう言い、蓮子は地図を取り出して一点を指した。どうやらここから目的地まではそう遠くないらしい。もっとも、昼間の蓮子の感覚を信じられるならば、だが。
地図の件をはじめとして、情報を集め、ここに来るきっかけをもたらしたのは蓮子だった。打ち棄てられた神社の跡地があるのだと、ある日彼女は報告してきたのだ。
「なんというか、誂え向きすぎて逆に胡散臭い気がする」
私がそうした率直な感想を零すと、蓮子はすかさず詰め寄った。
「行ってみないことには逆も何も無いわ。どうせ暇でしょう?」
「暇じゃないわよ。急用を思いついたから」
「『急用を思いつく』のが急用?」
「でも実際、急だわ」
「月は十よ。だからきっと誰もいないわ」と蓮子は言った。誘い文句にしては拙いかもしれないと思った。
そうしたことを思い返しながら、私は歩きつづけた。これで何も無かったら、躊躇いなく蓮子のせいにできると思うと、この坂を行く苦労もまだ軽く感じられてきた。
それに、そもそも疲労の原因を考えてみると、そうした勾配の程度は特に重大な要因ではない気がした。この参道の最も厄介な点は、先が見えないというところにあった。そのほとんどが痩せているとはいえ、四方を囲む鳥居と木々の密度は、視界の大部分を覆うには十分である。結果として私たちは、進んでいるか否かも分からないまま、この無間を彷徨っていたのだ。ゆえに、私が疲労を気に掛けなくなったのは、先程の想起によって、この道の始点と終点が明らかになったからだと言えるのだろう。
「お弁当とか持って来れば良かったかも」と蓮子が呟いた。
「そうね。パンの欠片でも撒いておけば、帰りも安心だし」
「こら。食べ物を粗末にしない」
「十月だから怒られないわ」
「私が怒る」
ときおりそうした軽口を挟みつつ、私たちはこの森の奥へ分け入っていたが、そこで私はなぜかわずかな違和感を視界に覚えた。足元を確かめると、白い鳥の羽の一片が落ちていた。蓮子は気が付いていない様子で通り過ぎたが、私はどうにもそれに注意を引かれた。拾い上げてみると、それは一種の金属のように薄く硬い。そうして羽を弄びながら進んでいると、また同じものを発見したのでふたたび拾った。二つの羽のあいだに大して差異がないことを確認すると、私はその内の一方を、ちょうど西から北への曲がり角にあった樹木の皮の隙間に挟んだ。その行為はほとんど無意識的なものだったので、私はいわば事後的に、それが目印の代わりになればいいという目的を行為に付け加えた。
北へ向かう途中で、私は地図にあった道筋を思い出していた。記憶が確かならば、おそらくあの角が最後で、あとは道なりに一、二分ほど歩けば目的地に着くはずだ。その証拠に、坂は徐々に緩やかなものになっていった。
最後の鳥居をくぐり終えると、私たちは狭い平地に出た。左手は変わらず木々が阻んでいたが、右手は開けており、そこは少し崖のようになっている。私たちはその傍に立ち、空を仰いだ。久しぶりに風を感じた。それから見下ろしてみると、そこには森と同じく死んだ植物の根や、無数の蔦がどこまでも折り重なり絡み合う奇妙な迷路の光景があった。記録によれば、そこは数百年前には大きな池となっていたはずだが、必然的な時間の運行に敗れてすっかり涸れてしまったのだろう。
一通りそれらの景色を眺め終えると、私たちはその平地の中央正面にある拝殿の遺跡へ歩を進めた。今やその屋根や壁のほとんどはむなしく崩落しており、内装が露わになっていた。腐食した木材と瓦の橋を渡って、私たちは中へ踏み入る。小規模だがそこを彩っていた装飾はほとんど穢されていた。久しく野晒しになっていたのだから当然のことだろう。
だが、最奥部だけは少し様子が違っていた。そこはなおも過去の姿を留めていた。その部分だけはかろうじて屋根が残っていたため、無事だったのだ。
さっそく探索を始めようと蓮子を呼んだが、「こういう所から空が見えるのって新鮮かも」となんだか呑気なことを言っている。
「真面目に探したらどう?」
「そうは言っても、ここまで崩れているとなると……。せいぜいあの凍った鏡と矢が怪しいくらいね」
そう言って蓮子は、拝殿の奥を指した。さっき私は気付かなかったが、よく見てみると確かに円く小さい鏡があり、その左手前には鏃を天に向けた矢が供えられていた。私たちは床が抜けないか注意しつつ、それらの傍へ行った。
「何か見える?」と蓮子は尋ねた。
「駄目ね、全然」
私は首を振った。彼らの記憶は沈黙したままだった。諦めて普通の観察を試みたが、鏡にしても矢にしても、それが単なる儀礼用以上の意味を持っているようには思えない。
「氷があるから、メリーの能力が通じないのかしら」
「でも、迂闊に触ったら壊れてしまいそうだし……」
謎があっても、肝心の対象を調べる手立てがないというのは難題だった。思い切って鏡に触れてみようとするたびに、周囲の破壊された装飾の数々が目に入り、躊躇いが手を引き止めた。そうして何も出来ないまま、拝殿の中で立ち竦んでいると、突然、夕陽が辺りを照らした。私たちは驚いた。南向きに建つ拝殿の方角を考えると、その朱色はあまりに強すぎる。「いったいどうして」と、どちらからともなく問うた。
私はそこで、あの金属に似た白い羽のことを思い出した。あれが光を反射させているのだ。およそ常識的とは言えない推論だったが、ここでは信じるに値すると思った。
私はもう一枚の羽を取り出すと、それにもう一度夕陽を反射させた。目標はもちろん、あの凍り付いた鏡の中心である。
光が当たると、鏡を覆っていた氷はすっかり融けた。そして鏡は夕陽を跳ね返し、崩れた天井の大穴から空を黄金に照らした。
しかし、それは束の間の出来事だった。秋の空は恐るべき速度で暮れていく。太陽との角度を欠いた光はすぐに翳り、鏡はそこに降りる矢の影を空へ投じるだけとなった。
そうして映し出された夜の空気は、月光と冷気を溶かしてひどく青い。私たちは思わず自分の身体を抱きしめるようにして背中を丸めた。外の白い森も今や一様に暗く沈んでおり、涸れた池は夜を湛えて植物たちを眠らせた。
私たちはそうした夜の静寂に耳を澄ませていた。この時ばかりはこの朽ち果てた社にも神が宿っているように思えた。
「ねえ、メリー」と隣に立つ蓮子が呼んだ。その表情は驚愕に満ちていた。
「時間が二重に見える」
その信じがたい言葉に身震いし、私は反射的に空を仰いだ。
当然、私には時間も場所も見えなかったが、より恐ろしく神秘的とさえ言える光景がそこにあった。私は蓮子の視界を手で覆い、その世界を映し出した。
夜空は二つに裂けていた。青い夜の膜は見事に引き裂かれて、その端は今にも山々へ覆い被さろうかという有様だった。そして、裂け目からは新たな夜空が覗いている―あの夕陽の朱よりもさらに赤く燃える光と、この夜よりもいっそう深く冷めた青い光とが、そこではせめぎ合い融け合っていた。
もはや夜は沈黙していない。鮮烈な朱と青の光によって紡がれた紫の空は眩く夜を飾り立て、褪せた過去のすべてを語り出した。
枯れた森、朽ちた鳥居、涸れた池……私たちが経験したあらゆる風景が、かつてそれらが有していた個々の色彩をもって眼前に蘇る。木々は若く、鳥居の丹塗りは照り輝いて新しい。それらはいっそ原始的とさえ言える鮮やかさで私たちを魅了した。おそらくそれは千年を超えて、あるいはもしかすると神々の時代から、この瞬間に現在と交差しているのだ。
私は蓮子から手を離すと、「どんな時間が見えたの?」と訊いた。
「一つは現在、もう一つは数千年前。でも、過去の方は明らかに時間の進み方が乱れていたわ」
「速かったり遅かったり?」
「あるいは、途切れ途切れに、散り散りに。メリーの見せたあの空のイメージが一番直感的かもね」
裂け目に現れた紫色の夜空を私は思い出した。今でも頭上ではあの空が明晰な光を発していたが、その支配は次第に弱まっているように見えた。そもそも開くべきでない所に穴が開いているのだから、それがいつか閉ざされるのは自然な現象なのだろう。私はあの鏡に手をかざし、本来の夜をそこに映した。すると現実の空も同様に、寂れた今の静けさを取り戻しはじめる。紫の光が衰えるにつれて、青い夜の膜はゆっくりと引き戻されていった。そして天と地が触れることはついに無いまま、私たちは元の眠りつづける夜に帰った。
そうした再生を見届け終えると、私はようやく鏡から意識を離すことができた。崩落した天井の穴から、月の光が拝殿を満たす。この空間のいっさいが、ふたたび氷に覆われる時が来たのだ。私は先程と同じようにして、鏡を月光に浸した。傍らの矢は、光と共に空へ放たれたのか、気付けば忽然と消えていた。
やがて月がすべてを凍らせると、私たちは拝殿を去った。蓮子の提案で、矢のあった場所には羽を添えておいた。角に置いてきたもう一方の羽は、帰る途中で確かめてみると、鏡と同じく凍り付いていた。
ついこの間までは夏だったというのに、夜はもう冬のように寒い。私は時の早さを痛切に感じた。しかし、それは必ずしも悪いことばかりではない。私たちが垣間見た神々の空だって、実はそう遠くない所にあるのかもしれないのだから。そうした希望の灯は夜の冷気を退けるにはまだ心もとなかったが、隣で平気な顔をしている蓮子を見ていると、今はそれでも構わないと思えた。蓮子はたぶん、その灯に満ちているのだ。それなら、こうして活動を続けているうちに私もいつかそうなれるのだと信じよう。けっして口には出さずに、私は勝手にそう決めつけることにした。ある十月の出来事だった。
(初出: 2016/10/30 第六回科学世紀のカフェテラス)