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『神へ連なる十三階段』

神へ連なる十三階段


「この館に聖書はありますか?」

 ある日、この無邪気で冒涜的な問いを発したのは、奇しくも『アップル』と呼ばれている一人の妖精メイドだった。ほとんど無用の知恵ばかりを蓄える享楽的な妖精にしては珍しく、彼女はともすれば賢しい人間にも並びうる知識を有していた。気まぐれな仕事や仲間たちとのおしゃべりに興じるときを除いては、彼女はたいてい図書館にいた。彼女は自然よりも書物を友とする妖精だった。

「さあ。私は知りませんわ。パチュリー様ならご存知かもしれません」

 しばらく考えた後に、私はそれだけを答えた。アップルは落胆し、半ば苦悩の滲む表情を浮かべながら、件の魔女にこのことを尋ねる勇気はとてもないのだと打ち明けた。自身の問いが、この館に過ごす主な住人――吸血鬼や魔女――にとってまったく望ましくないということをよく知っていたのだ。人間である私に問うことすらきっと恐ろしかったのだろう。つい応えてやりたいという人情が微かに現れかけたが、すぐに封じることにした。これは、いわゆる面倒事の部類だ。

「それじゃあ、私はまだ掃除の仕事が残っているから」

 アップルはあからさまに落ち込んでいたが、私としてもこれはできれば関わりたくない問題だった。別に、十字架を恐れてもいなければ、彼らの教えに是非云々があるわけでもなかったが、私は悪魔の従者なのだから。

 押し黙るアップルは、立ち去る歩みを縫い止めるには確かに十分な切実さを訴えていたが、時を止めてしまえばもはやその沈黙に意味はない。私は長い廊下を飛んだ。再び世界が動き出したときには、アップルの姿はもう見えない。追及を完全にかわすには、これが最も簡単で賢明な策だった。わずかな罪悪感を抱いたが、相手はしょせん妖精だ。明日になれば、きっと新たな興味の対象を発見していることだろう。めまぐるしく移り変わる妖精の遊びにいちいち付き合うほど私は愚かではないつもりだ。

 しかし、その予想はまったく的外れなものだったのだと、私は早晩気付かされることとなった。翌日目覚めた私は、館の中がやけに騒がしいことに気が付いた。けっして薄くないはずの自室の壁が細波のように震え続けている。わざわざ注意して耳を澄まさずとも、ある種の喧噪が把握できた。それは、普段の妖精たちには似つかわしくない類のかしましさだった。まったく異様な表現だが、その騒々しさには秩序があるのだ。すべての声が、熱が、空気が、明らかにある一方向へと収斂している―言うまでもないが、聖書である。至るところの妖精メイドたちがその聞きなれぬ新奇な単語へもっぱら注意を傾けていた。こうなればもはや、騒ぎが吸血鬼や魔女に伝わるのも時間の問題だ。しかも、既にこれはあらゆる妖精に波及していたので、誰もアップルが原初の震源だとは気付かない。緻密な企てなのか、偶然の幸運なのか、それは本人を問い詰めてみなければ分からないことだが、いずれにしても見事な手管だった。

 妖精たちの熱狂は、私が彼女たちの前に堂々と姿を見せてからもいっさい止むことがなく、それどころかいっそう激しさを増すばかりだった。さながら聖書を無限の動力として燃え盛る火だ。拡大する熱は館中を音速の蛇となって瞬く間に覆い尽くした。

 やがて蛇は棺を叩いたのだろう、暗い廊下の端に真紅の気配が降り立つのを私は感じた。「すみません、お嬢様」気配の主、レミリア・スカーレットの傍で私は頭を下げる。いまだ冷めぬ異例の混乱は私の不徳以外の何物でもないだろう。メイド長の名を負う者として、こうした事態は未然に防ぐべきだったろうに。

「詫びることではないよ、咲夜。賑やかなのはむしろ好ましいことだし、それに――原因を知りたければ、こうして分別のありそうな者に尋ねればいい」

 まったく些事だという風に手を振り、お嬢様は廊下を進んでゆく。そして騒動の渦中にあってわりあい冷静な妖精を捕まえた。予想通り、それはアップルだった。

 アップルは私たちの方へぎこちなく振り向くと、当惑と不安に目を泳がせた。この館の主に直接詰問されて知らぬ顔をできるほど彼女の神経は太くない。はじめの一言を切り出すまでにいくらかのためらいがあったものの、昨日私に言ったのと同じ台詞を彼女は一息に吐き出した。

「そういうことなら、図書館に聞きに行きましょう」

 ほとんど間をあけることなく、お嬢様はあっさりと答えた。私は驚いた。アップルはより驚愕して数秒の間固まっていた。

「行くわよ、ついてきなさい」

 そう言うと、お嬢様は妖精の一群をかわしながら図書館へと歩を進める。一時の硬直から覚め、私たちもすぐにその後を追った。三者の中でお嬢様だけが自由に振る舞っていて、いかにもここの主らしいと私はひそかに思った。

 図書館を訪れるたびに、私はこの空間のさらなる膨張を再認していた。もちろんこれは自分の能力の成果ではあるものの、その制御に意識的なものはほとんど介在していないため、まるで見ぬ間に育つ遠縁の幼子を眺めるときのような、あの自然な感慨を抱いてしまうのだ。つまり、きわめて空虚な反射である。

「じゃあ少し待っていなさい」とお嬢様は告げると、うずたかく本が積まれた大きな机の方へと歩いて行った。おそらくあの書物のヴェールの向こうに尋ね人はいるのだろう。主とその友人の会話はすっかり隠されてしまった。手持ちぶさたであるために、彼方に巡らされた図書館の各回廊や膨大な未知の蔵書に意識を彷徨わせていたが、やがて飽きた。ふと視線を落とせばそれはアップルも同じだったようで不意に目が合った。長い廊下の時間のせいか、あるいはこの場所への親しさからか、彼女はわりあいいつもの落ち着いた調子を取り戻していた。鬼の居ぬ間に、というわけではないが、私は彼女の冷静が見かけだけではないことを確かめることにした。

「ねえ、そもそもどうして聖書なんかのことを……」

 アップルはこの予期しない問いかけを受けてわずかに飛び上がった。数回の瞬きの後、ややあって彼女はひかえめに答えた。

「これまで読んできた本に、聖書のことが何度も出てきたので――」

 それに、と彼女は声をより低くして続ける。

「この図書館に無い本というものがあるのか、気になったというのも……」

「そりゃ、あるんじゃないの。ここは宇宙じゃあるまいし」

「そうですかね? 私は、私の想像力じゃ図書館の巨大さにはとても及ばないと思うのですけど」

「大きさというのは、高さや幅や奥行きだけではないから。時間も忘れちゃいけないわ」

 アップルが返答に悩んでいると、ちょうどお嬢様が戻ってきた。その手には何も携えてはいない。私たちを向こうへ呼ばなかったことを考えると、やはり収穫はなかったのだろうか。私と同様の思考を経ていささかの失望に翳るアップルに対し、しかしお嬢様は驚くべきことを言った。

「『客室を探せ』って」

 お嬢様、あるいはパチュリー様いわく、その方が図書館を探すよりは簡単に済むらしい。図書館に聖書は存在するかもしれないが、なにせ途方もない巨大さである。ここの本の配置にもっとも詳しいのは小悪魔だが、彼女に聖書の捜索を委ねるのはあまりに無理がすぎるという話で、そうなると後はアハスヴェールよろしくあの無限の回廊を永遠にさまよい歩くしかない。その点、数多ある客室なら聖書の一つくらい備えてある部屋が見つかるはずだということだった。

 正直、聖書を必要とする者がこの館を訪れる事態がありうるとはとうてい思えなかったが、他ならぬ図書館の主が言うことである。私たちは信頼することにした。

 かくして今度は客室の並ぶ階層へ向かうべく踵を返すと、お嬢様は若干の退屈を滲ませた声で、「図書館で待っているから、見つかったら教えなさい」と私たちを見送った。

 長々とお嬢様を待たせるのも気が咎めるので、私は時を止めて終わらせてしまおうとした。だが、それは叶わなかった。確かな言葉はないものの、アップルの眼差しが静かに反論していたのだ。自分も捜索に参加したいという頑なな意志が一目で見てとれる。折衷案として、私は自分と彼女に最小限の時間加速だけを施すことにした。

 果たして、先に聖書を見つけたのは私の方だった。客室の一つ、デスクの傍にある棚の一隅にそれは横たわっていた。お嬢様は、「見つかったら教えなさい」と言っていたが、本来そうする意味はほとんどないはずだということにふと気が付いた。これはもともとアップルをはじめとする妖精メイドたちの目的であり、お嬢様が聖書を求める理由はどこにもない。それにもかかわらず命ずるということは、きっと聖書を新たな娯楽の種にしようと企んでいるのだろう。思わず少し息を吐いて私は笑った。

 未だ聖書探しに勤しんでいるだろうアップルを呼ぶと、私たちは再び図書館へと急いだ。アップルはおおむね嬉しそうな笑顔だった。だが、そこにわずかな不安が残っているのを私は見逃さなかった。なにか声を掛けてみようかと考えたものの、特に思いつかず、やめた。

 さて、お嬢様の企みは夕食の後、公になった。この日は館中の者を出来る限りみな大食堂に集めて会食を行ったのだ。もちろん妖精メイドも暇のある者は一人残らず集まった。彼女らはもとよりこうしたお祭りの雰囲気を好んでいた。また、妹様もこの招待の例外ではなかった。

 全員の注目を促すと、演壇の上でお嬢様はもったいぶった口調でこの催しの経緯の説明を始めた。妙に形式に沿った挨拶から入り、自身や周囲の近況を長々と語っていた。もっとも、大半の者は聞いていなかったが。妖精メイドの多くは憚ることのないおしゃべりに興じているか、そうでなければ抗いがたい睡魔との格闘を強いられていた。何人かは友人の肩によりかかり、かろうじて立っているという状態だった。

「では、そろそろ今宵の主題に入るとしよう――そう、聖書についてだ」

 演説もたけなわ、そのとき発せられた静かな宣言に、すべての聴衆――意識を手放しつつあった数人の妖精メイドも含めて――は身じろぎした。ほとんどは驚きがその理由だったが、呆れや不審の色も中にはあったように思う。

「部下の期待に応えるは主の使命。ここは悪魔の館だが……特別に聖書を読むことを許可する」

 お嬢様が言い終えるや否や、妖精メイドたちは一様に飛び上がって喜んでみせた。パチュリー様はいよいよため息を一度吐き、妹様と視線を交わして互いに首を振った。一拍遅れて、私もその輪に加わった。ぽかんと口を開けたまま、まばらな拍手を送っている美鈴が視界の端に立っていた。

 こうして、食事の後のテーブルで、聖書の朗読を行うことが日課となった。ただし、お嬢様とパチュリー様の協議の結果、それには様々な制約が施された。たとえば、範囲について。すべての文書を読むのはさすがに骨が折れることだし、そもそもこの館に住まう一部の種にとっては苦痛にもなりうる恐れがあるということで、まずは創世記のみが朗読の対象となった。そうは言っても、大半の妖精はいわば流行り病に浮かされているのと変わらなかったので、それでも十分すぎる計らいである。もし興味を持ち続ける者があったとしても、この朗読をもとに聖書の読み方を覚え、残りは勝手に自分で読み進めることだろう……。私は、またおそらくお嬢様たちも、そう考えていた。

 また、たとえば期間について。やはり移り気な妖精の性を考えるに、長期に渡ってこれを続けても意義を失うだけだというのは先に述べたとおりの共通見解である。それゆえの期間限定だ。数奇なことだが、私たちが聖書の発見をなしたのはちょうど朔のことだった。そこで、私たちは月が満ちるまでを聖書の期間と定めた。たとえ中途であっても、二週間、十四日を超えての聖書の朗読は行われないことが約束された。

 そして、おそらくこれがもっとも重要なのだが、順序についての制約が定められた。悪魔の家で真面目に聖書を読むほど馬鹿げたことはない……その点についてはお嬢様も了解していたようで、どうやらまともな読み方をするつもりはなかったらしい。レミリア・スカーレットが求めているのは教義や歴史ではなく娯楽なのだ。

「ただし、聖書は逆から読むこと。つまり、朗読は最後の文から始まり、最初の文で終わる」

 パチュリー様は囁くようにそう提案した。私とお嬢様は頷いた。朗読役は、人間である私が最も中立的だということで、そう決まった。

 かくして翌日――第一夜、私ははじめにヨセフの死を読み上げた。最初の夜ということもあり、おそらく館のほとんど全員が聴衆として集った。ただ、一つだけ致命的な誤算があった。書物を逆順で朗読するという行為は、想定していたよりも遥かに厄介だったのだ。次に読まれるべき文を私は何度も誤りかけた。もちろん、聴衆の大半を占める妖精たちはこの危うさに気が付いてはいなかったのだろうが、少なくともお嬢様はきっと察していたに違いない。私は自分の未熟さを恥じた。ゆえに第二夜からは毎回二時間ほど、時を止めて事前に朗読の予行を行うことを習慣とした。

 以後、夜を重ねるごとに館の中は不思議と静まりかえっていった。とはいえ、会話がなくなったわけではなかった。廊下の隅、花壇の傍、妖精メイドたちは聖書にまつわる話題をあれこれと声をひそめて議論するようになった。

 たとえば、第二十二章、イサクの代わりに雄羊が捧げられる場面……なぜ神に生贄が必要なのかというありきたりの疑問などが拙く語られていた。妖精たる彼女たちにとって、雄羊と人間の子の間の差異は今一つ不明瞭なものだった。そして、ともすれば、吸血鬼や魔女や悪魔と、神の間についてもそれは同様だったのかもしれない。館の仕事をしていると、ときおりそうした疑問を直接私に尋ねてくる者もあった。

 私は彼らの教義について深く知っているわけではなかったので、回答はたいてい曖昧な記憶や場当たりの推測によっていたが、いかにも自信がある風を装って私は答えた。中途半端な言い方は、へたな厄介を抱え込む種にしかならない。

 こうしたやり取りを多く経たせいだろうか、あるとき気が付くと、普段は気ままに振る舞うばかりの妖精メイドたちの眼差しに、私に対するいくらかの敬慕が宿りはじめていた。囁くように会話をするのも、あるいはこの憧れに似た敬意のせいなのかもしれない。多少の気恥ずかしさはあったが、すぐに慣れた。自分自身、この状況に疑いを持つのをいつの間にか忘れていたのだ。そのことが、朗読者の役割に没入しつつある危うい在り方を暗示していたのだと知ったのは、さらに後になってのことだったが。

 聖書が読まれる間、聴衆は、たまにティーカップに触れるときを除いてはほとんど口を閉ざしたままでいた。私だけが言葉を自由にできるのだろうか、と錯覚することすらあった。神聖だがそれ以上に冒涜的な、完全な球への漸近を直感させる場が形成されはじめていた。

 聴衆はもっぱら紅茶を楽しんだが、私は朗読の後に一杯のコーヒーを飲むことが習慣となっていた。自分で始めたことではなかった。件の妖精メイドたちが、気を利かせて用意してくれるのだ。

 私たちはとうにこの朗読を中心として日々を送るようになっていた。食事すらもはや、聖書の時間を迎えるための単なる儀式にすぎない。妖精メイドたちは配膳や片付けを以前にましてよく手伝った。以前は活発だった館内の会話も、今やあまり聞こえなくなった。私たちはもうずいぶんと長い間互いの言葉を耳にしていないような錯覚に陥った。

 第十一夜のことだったか、この頃には食堂の灯りはいくつかの蝋燭のみに限定されていた。沈黙が支配するテーブルに、過剰な灯りはかえって眩しいだけだった。光など、朗読者が聖書の字句を確認できればそれで十分だった。暗がりに聖なる声ばかりが響いた。いっそう神秘的な気配が漂いはじめていた。

 はじめに定めた期限を間近に迎えた第十三夜には、いよいよ四つの章が残されるのみとなった。配分を考えると、最後の一部を翌夜に回すことになるかどうか怪しかったが、私たちはひそかに――だが、みな一様に――この夜ですべてを終わらせることを心の中で誓っていた。

 ――カインが弟アベルを殺した。エバがアベルとカインとを産んだ。アダムとエバは罪を抱き、追放の速度で場面はエデンの園へ戻る。エバがアダムに果実を与え、蛇がエバを唆した。エバの創造があり、そしてアダムが創造された。神は第七日を祝福された。

 私は一度、深呼吸をした。聖書には、最後の、あるいは最初の一章のみが残されていた。

 第六日、神はそれぞれの生き物を造らせた。

 私は語った。

 第五日、神は海の水に生き物を、地の上に翼ある鳥を創造した。

 私は語った。

 第四日、神は昼と夜、光と闇とを分けさせた。

 私は語った。

 第三日、乾ける地が現れ、海が生まれた。

 私は語った。

 第二日、大空を造り、水と水とを分けた。

 私は語った。

 第一日、『光あれ』、私は語った。

 こうして、光があった。

 いっさいの蝋燭の灯が尽き、室内は暗闇になった。しかし、誰も言葉を発することなくじっとしていた。誰一人として、この光の不在に動じる者はなかった。完全な暗闇のため聖書の字句はもう見えないが、残された数節程度なら記憶しているという確信があった。言葉にするのはきっと簡単だった。

 一瞬のうちに、永遠とも思える時間が経った。みな沈黙して次の言葉を待っていた。待っていたのだと私は感じた。

 ゆえに私は決心した。同時に、声が語った。

 原初、

『地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。初めに、神は天地を創造された』

 そうして、すべては宙吊りになった。吸血鬼も魔女も妖精も人間も、みな分かたれることはなく浮かんでいた。もはや昼も夜もないあらゆる色彩の虚無の中で、残された言葉だけを待ち続けていた。



 

(初出: 2016/04/03 第1回あおこんぺ お題「紅魔郷キャラ」)

※当記事の作品は『円環の砂時計』収録の加筆・修正版の公開となります。





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